明るい人だった。
ほとんどの記憶は笑顔ばかりである。
よく笑わせてくれた。
その最たるエピソードは、調教師仲間と行った温泉旅行先でのこと。
「この髪のないアタマで丹前をはおって温泉街を散歩していたら、前から歩いてきた婦人ご一行が僕の目の前で立ち止まり、手を合わせて拝んできたんです。僕も神妙な顔をして、手を合わせて会釈しておきました(笑)」
口は悪かったけど、おおらかさとその朗らかさが口の悪さをカバーして、どんな時でも大概の場合、周囲の笑いを誘っていた。
もう10数年、毎年暮れのメイショウ会の司会をさせてもらってきたが、お開きになる時、先生は必ず「また一人の家へ帰るのか」とか「今年も一人で年を越すのか」「寂しいのう。あははは」と笑いながら、からかってきた。わたしはそれを、なにくれとなく声をかけてくれるというふううに嬉しくとっていたし、“今年は何を言ってくれるのか”と、年々それが楽しみになっていったほどだった。
7、8年前になるが、馬主さんなど5、6人で東京でカラオケへ行った時のこと。お店に入るとステージでは他の女性客がすでに歌っていた。玄人のような巧さがあった。わたしたちの席はステージのすぐ脇で、その歌声に聴き入ったほどだった。
ふと安田先生が口にしたのは「歌は巧いけど、顔はイマイチやなあ」。
わたしたちは固まった。どこのどんな人か知らないのに、そんなことを言っていいのか。関西なら笑いで済んでも、そこは東京である。ただ、ジョークの分かる女性だったらしく「ブスって言われたから、ハゲって言えるわ」と応酬し、そのあとその人たちとも打ち解けてみんなでおおいに楽しめた。ふり返ると、そういうジョークが通じる人かそうでないかを見極めるのに長けた人だったように思うし、みんなを楽しい気分にさせる達人だったようにも思う。
わたしが最後にお会いしたのは、昨年の夏。小倉競馬開催中で、偶然にも小倉の駅でばったりお会いしたのだった。いつものようにお元気そうで、少し立ち話して「またね」と言って新幹線に乗り込んで行った。何ら変わりない、いつもの元気溌剌とした笑顔だった。それが最後になってしまった。
新幹線といえば、メイショウドトウがなかなかGⅠで勝てなかった頃、その時もやはり偶然東京駅でばったりとお会いし、一緒に帰阪させていただいたことがある。先生は息子さんの康彦騎手と一緒で、東京だったか中山だったか競馬場の帰り道。わたしは当時、毎週末新幹線で東京へ仕事で通っていて、偶然、同じ新幹線に乗り合わせたのだった。
康彦くんは自己表現が下手で誤解を受けることもままあったが根本的には繊細で思いやりに溢れた気持ちのいい青年で、3人で楽しくしゃべりながら帰ってきたのを覚えている。その会話の中で、メイショウドトウの話になった時のこと。康彦くんは「ほかの騎手に替わったらメイショウドトウを勝たせてあげられるんだろうか。僕は降りたほうがいいんじゃないか」と苦悶した時期があったという。その話をしているあいだ、先生はひと言も口を挟まず、少し視線を落としながら優しいまなざしで息子の話に耳を傾けていた。その数ヶ月後、メイショウドトウは康彦くんを鞍上に宝塚記念を勝ち、念願の親子GⅠ制覇を果たしたのだった。
わたしが栗東で最も良く行く飲食店はあるラーメン屋さんで、先生を取材させていただいたあと、スタッフの人たちとともに「美味しいラーメン屋さんがある」と連れて行ってくれたお店だ。それがもう10年ほど前になる。美味しい上にお店のオーナーご夫妻が楽しい方で、いまではすっかりわたしの取材仕事のあとの憩いの場所となっている。
今日のお別れの会には是が非でも伺うつもりにしていた。そのために、昨夜は珍しく12時前にベッドに入った。が、寝付けなかった。詳しい死因をまだ知らないが、一説にはガンを患い、そのガンを克服したにも関わらず合併症で亡くなったと聞いたからである。もしそれが確かな情報であるならば、まるでわたしの父の亡くなり方と同じではないか。わたしの父はガンで手術を受けそれは成功したのに院内感染で亡くなった。まことに、やりきれない死に方である。
それらがまざまざと蘇り、空が白み始めても、朝刊が届いても、目も脳も冴えるいっぽうだった。少しでも眠らなければ京都まで行けないと思ったわたしは、7時頃になって眠剤を4分の1に割って口に含んだ。飲むのは1年以上ぶりだったから、よく効いた。効き過ぎて、目が覚めたのは乗るはずの電車の発車時刻だった。
先生、最期のお別れに行けなくてごめんなさい。
仲がよく笑い声の絶えなかったご家族の悲しみを思うと、やりきれなさばかりが募ります。心から、ご冥福をお祈りしております。

<99年1月17日撮影/週刊競馬ブック「芦谷有香の栗東厩舎探訪記」厩舎・大仲にて>