指南宮で出会ったカスミさん
ここ数年、日本に明るい未来はないなあと感じている。特に昨年あたりからは、「おかしな国になっちゃったなあ」と思っている。それを思うたびに、台湾の指南宮で出会ったカスミさんを思い出す。
「指南宮」は山腹に建つ純中国式建築の道教の廟である。創建は1891年というから、すでに120年の歴史を持っている。かなりの規模の廟で、多くの信者がいるそうだ。市街地からバスに乗っていったのだが、その揺れが心地よくてすっかり熟睡してしまい、どの程度で着いたか分からない。おそらく、4、50分は揺られていたと思う。
バスを降りてからも、すぐには着きません。ノスタルジックなアーケードを歩き、それと共にまだ山を上がって行くのです。廟が視界に入っても、急な階段に目が眩みそうです。が、上ってしまうと、頑張って登ってきて良かった、そう思わせてくれる爽快感と廟の荘厳さがあります。
カスミさんと出会ったのは、指南宮をゆっくり数時間かけて堪能し、帰ろうとバス停まで降りて来て乗り込んだそのバスの中でした。バスの運転手が自国語しか話せず、助け舟を出してくれたのがカスミさん。カスミさんは台湾の人だけど、日本語がとても流暢。しかも標準語でした。
カスミさんは、かつて日本人の教師に習い、日本に留学した経験もあるという。カスミという名は、どうやらその教師がつけてくれたものらしい。台湾名が「彩霞」さんだから、その一文字を取ったようだ。
すっかり打ち解けたわたしたちは、市街地で降りたら一緒に歩こうということになった。街へ到着した頃にはもう暮色が降りていて、小腹が空いていたわたしたち。カスミさんお勧めの「シェンタンエン」を食べにお店に入った。湯の中に浮かんだ白玉はほどよい塩味で、噛むと中から甘い餡が口の中へ飛び出してきた。何とも言えない味わいで、台湾へ行ったらまた食べたいと、いまでも思っている。カスミさんがごちそうしてくれたから、なお美味しく感じたのかもしれない。
さて、カスミさんが習っていた日本人の教師が明瞭かつ熱心な先生だったらしく、彼女の言動から恩師としてとても慕っているのが窺えた。カスミさんはのちに、教師になっている。
その先生のおかげで同級生たちと数ヶ月の日本への短期留学も叶ったそうだ。カスミさんたちが、10代の頃のことである。
その後、日本人との縁談が持ち上がった。教師が勧めてくれた確かな筋の人であったらしいが、いかんせんカスミさんは一人っ子。結婚したら日本へ移住しなければならない。両親に猛反対され、泣く泣く諦めたのだという。
だが、カスミさんはその後、一人で日本へ向かう一大決心をする。もう一度日本の地を踏んで、自分の足で歩いて自分の目で確かめて、それから将来のことを決めよう、そう決心したのである。当時は飛行機なんぞあるはずもなく、船での航海となる。台湾から神戸港まで、28日ほどを要したそうだ。
次に台湾に来て折り返し神戸へ帰る「高千穂丸」に乗船する計画を立てた。1934年のことである。もうすぐ春が訪れようかという3月、その船はアメリカ軍の魚雷を受け、沈没した。以来、台湾と日本を往来する船旅の船舶は姿を消した。太平洋戦争のまっただ中であった。カスミさんの渡日は、かなわなくなった。
カスミさんは、ひとり言のようにぽつりとつぶやいた。
「あの時、日本に行っていれば・・・」
カスミさんたちの年代の人からすれば、発展が違い過ぎた。日本はその後経済大国になり開発した商品は世界中で売られその技術や能力を高く評価された。
ただ、それら日本が誇りにしてきたものはすでに音を立てて崩れかけている。すでに崩れてしまっているかもしれない。わたしのイメージする将来の日本には、何もない。それに引き換え、台湾はこれから伸びていく国であろうし、人々の活気も繋がり方も、何から何まで日本と違う。
わたしは「カスミさん、台湾で良かったですよ。いえ、台湾“が”良かったですよ」と返した。
カスミさんは「本当にそう思う?」と言って、それまで長いあいだ背負い続けてきた重い荷物を降ろしたかのようにホッとした表情になってほんの少しだけ白い歯を見せた。
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